私ってなんだかんだ言って、文章を書くのが好きなのかもしれないと思った午後のぬるい時間。
ぬるいというのは、決して悪いことではなくて、焦りや目的がなくて、そのゆるさを楽しむ時間。心地よい室内で外の日差しを眺めたり、好きな本を読みながら隣でくっついて寝ている愛犬の温もりを感じたり、そんなスキマの時間が本当は大好きなんだった。
つい仕事や学びの時間にせねば!と何もしていないこの時間を無駄な時間にカウントしてしまうことも多いけれど、本当はこの瞬間の中に沢山の気付きがある。
いつになっても、何歳になっても、自分に対する気づきって大切だなと思う。
だって、みんな自分を生きてるんだもんね!
自分への気づきって魂との繋がりを強くしてくれる。 いや、それは逆で、自分の内側としっかり繋がるから気づいていくんだろうなと思う。
その、自分の内側としっかり繋がる為には、自分の好きなことをとことんやっていくしかない。世の中的に良しとされていないとか、社会の常識とか、平均のあたりを行こうとするとねじ曲がっていく。
どうやら、やはりと言ってもいいが、私は、セッションを詰め込んじゃう日々が続くとパンクする。
それはセッションが嫌いなのではなくて、そのスキマ時間と思って削った大好きなゆるい時間、ぬるい時間が取れないからなんだと気づいた。
詰め詰めの時間には、インスピレーションが降りてきても実現させる余白がないし、美味しいコーヒーやハーブティーを味わう時間がない。飲む時間しかないなんてつまらない上に味気ないことこの上ない。読書をする時間はあっても味わい、余韻にひたる時間がないなんてそれはもう読書なんてものじゃない。読まなくちゃと思って読むのも違う。今日のお天気なら、この読みかけの本じゃなくて、吉本ばななだなとか。東北新幹線に乗るなら絶対「マリアビートル」だなとか。
最近なんだかしっくりこない、何かかズレていると感じていたのはこれだった。
それらの多くの時間を、だらだらしていたらいけないと自分を戒めていた。
いけないというのも、そもそも、世の中的にとかそんな感じだし。
自分を生きるというのは、世間的にとかどうでも良くて、心地よい時間や幸せな時間を増やして、不要な時間や無駄な時間を減らしていく作業だ。
その繰り返しの中て、私みたいに本当は必要な部分を誤って減らしてしまったら、それはまた戻せばいい。
そうやって自分的に人生が澄んでいくと、人生の目的を生きるのが自然になる。
もしもやりたいことがわからなくても、やりたくないことはわかりやすくサインを出してくるから減らすことは簡単だと思う。
簡単だと思っておくとより簡単になる。